0.予感




 ガサガサと彼女が駆けていくスピードにあわせ、その肩ほどまで丈のある雑草が騒がしく音を立てる。
 心は理由の知れない焦りに駆られ、息が切れているのか、ぜぇぜぇと耳障りな音がする。
 けれど、不思議と苦しいとは思わなかった。
 それで彼女は納得する。
 これは夢なのだ。
 だから、いくら走っても本当に疲れるわけはない。
 視界に入ってくるのは、都会暮らしの日常ではめったに見ない獣道。
 焦る心とは裏腹に、夢と気付いた理性の一部が冷静に判断した。
 今、自分は眠っており近頃頻繁に見るあの里の夢なのだと。
 道理で、目線が低いはずだ。
 いくら伸び放題だとは言っても、草がここまで伸びるとは思えない。
 けれどこれがいつものあの夢なら、自分が肩まで草の海に浸かっているわけも分かる。
 と、ふいに草の波を突き抜け、勢い余ってそのまま駆け抜けて。

―――ばしゃん。

 いっそ小気味の良い音をたてて、突如目の前に出現した泉に落ちた。
 澄んだ水面に、髪からぽたりぽたりと滴が落ちて輪が出来る。
 揺れるその場所には、現実のそれよりも十は幼い顔が映っていた。
 この世界の夢を見るときは、絶対に八歳以前の姿になっているからそれ自体は不思議には思わなかったのだが。
 おや、と彼女は思う。
 これは初めてのパターンだ、と。
 いつもの夢は、母に連れられ町を歩いたり、母の知人らしき老人を訪ねたり。
 そうでなくても、妹と共に広場や森、川辺の林などでじゃれあっていたり。ともかく、何があっても必ず母か妹が傍に居たし、どれもこれも似たり寄ったりの内容だった。

 しかし、これは違う。

 母も妹もここには居らず、そしてこんな風に焦った挙句にこんな醜態を晒すなど初めてのことだ。
 それに、この場所も微妙にいつも見るそれとは雰囲気が違っていた。
 何がどうと言うわけではないのだが、強いて言うなれば空気だろう。
 山奥に入り込んだ夢も見たことがあるが、ここまで空気は重くなかった。
 空を見上げれば、泉を囲むようにしてぽっかりと穴が開いている。
 今まで茂る木の葉の所為で光がささない場所を走っていた分、足元のそれと違って沖の水面がきらきらと反射する光を見てしまった時は目に刺さって痛かった。
 だからだろう。
 気付くのが、遅れた。

「ここに何のようだ」

 背後から抑揚のない、低い声。
 首元には水の冷たさとは種類の違う、金属の冷たさを感じて。

「振り向くな。質問に答えろ」

 制止の声をかけられては、相手の顔を見ることは叶わず、その声と足元に映る影から自分よりも一回り近く年上の青年だと検討づけるしかなかった。
 夢の中の彼女が焦りを押さえ込み、冷静さを取り戻す。
 そこで初めて、辺りに血臭が充満していることに気付いた。
 背後の青年から微かに。
 けれど泉の対岸。木が群れる闇の向うから、むせ返りそうな程の鉄錆の臭い。
 草むらの闇の中の状況は、なんとなく分かった気がした。

「…間に合わなかったんだね」

 夢の中の自分の言葉に、相手の手に力が篭る。

「あいつらの仲間か」

 ならば、殺さねばならない。
 そう空気で語る青年に、彼女の意識とは無関係に夢の中の彼女は小さく首を横に振る。
 そうじゃない、と。

「殺さないですめば、って思ったの」

 視界がぼやけるのは、おそらく光の所為だけではないだろう。
 前髪の先から滴が顎を伝って、泉に落ちる。

「せめて、殺させないですめばって」

 ごめんね。
 困惑する気配が背後から。
 現実の彼女とてそれは同じで。


 何故この少女が謝るのか。
 なぜ自分は謝っているのか。


 共通の思いは、けれど思わぬ彼女の行動に同時に停止する。

「!?」

 血が青年の持つクナイを伝い彼の掌を伝って、水面へと吸い込まれていく。泉に取り込まれた紅は、澄んだ水を濁らして、やがて拡散した。
 目を見開いた青年の姿を、真っ向から見つめる。
 無理もない。
 そう、彼女の一部が冷静に判断する。
 首もとの刃物を無視して、振り返ればこうなるのは必至だ。
 生暖かい滴が首筋を這って行くのが分かった。
 全く無茶をするものだ。
 だが、それでもこれは間違いなく自分だと、直感がそう告げる。
 目の前の青年は、我に帰ったように手のクナイを引っ込めた。
 印象的な容姿。
 銀の髪に、左右の色が違う瞳。傷が走る左目は、血の色だった。クナイの無い手には、割れた犬の面がある。忍装束を着た彼は明らかに戸惑いの表情を浮かべていて。
 その瞳に浮ぶ光を見て、彼女の中の現実の彼女は納得した。
 自分は彼に謝らなければならないことをさせたのだと。
 理屈ではなく、それはただの直感。けれどそれだけで充分だった。

「ごめん、痛かったよね」

 ポケットからハンカチを取り出して、彼女は苦く微笑んだ。
 血のにじむ青年の腕にそれを当てる。
 自分が泣くのは卑怯だと、それだけは分かっていたのに。
 それでも、涙が止め処なく溢れた。
 怪訝な顔で自分を見つめてくる彼は、きっと気付いていない。
 現実の傷は確かに掠り傷と言っても過言ではないけれど。
 だって、こんなにも心が傷ついて、血が流れているのに。
 夢の中の彼女は唇を噛み締める。

 いつも、いつも、いつも。
 自分は誰かに血を流させて、己だけはいつも安全な場所で護られて。
 これで良い訳がない。
 このままじゃ駄目だ。
 強く、強く、強く。
 一刻も早く強くならなければ。

 再び焦りに支配された自分の心に、彼女は自問する。

(どうして…?)

 護られるだけは、嫌。

(護られる? 一体誰に、一体何から)

 それは―――



ちゃん! ちゃんっ起きて!」
「はぅ?」
「はぅ、じゃないでしょ」

 前。
 呆れたように右隣りの席に座る双子の妹が指差す方を見やって、頑固じじぃと名高い古典担当教師の半眼と目が合った。

「ようやくお目覚めかね、渡瀬くん」

 にっこりと微笑みかけられて(しかし目が笑っていない)、は釣られて愛想笑いを浮かべる。乾いた笑い声を上げながら、ふと先程見た夢の内容を思い起こそうとして気付いた。

(あれ。)

 胸に広がるのは喪失感、そして夢の名残である焦燥感のみ。

(どういう夢だったっけ?)

 何気なく傍らの窓から見上げた空には雲ひとつ浮んでおらず、答えは誰からも返らない。
 けれど。
 そう遠くない未来、あの夢の続きを見られるような。そんな、気がした。






「あー! カカシ先生ってば、今ぜってぇー寝てた!!」

 ずりぃー、とぎゃんぎゃん喚く声にカカシは目の前に開いた文庫を膝元に下ろし、薄く目を開く。
 見上げれば、予想通り木陰の中でも眩しく輝く金の髪の少年が、しかめっ面で自分を見下ろしている。
 その背後には桃色の髪に少女と黒髪の少年が、程度の差はあれど似たような顔で自分の方を見ていた。

「失礼な。寝てなんかないぞ」

 返しながら、ふと先程の夢に出てきた懐かしい少女の顔を思い起こす。
 ごめん、と何度も口にしながら自分の腕にハンカチを巻いていた彼女。
 自分の半分も生きてはいないだろう彼女の瞳は、とても大人びていて。そして、何処かその涙に救われた自分を彼は知っている。
 教え子たちの非難を軽くスルーしつつ、木の幹から身を起こして彼は空を見上げた。
 雲一つない、青空。
 名前しか知らないあの少女は、今ごろこの空の下のどこを歩いているのだろうか。





















 H18.11.22(書いた日はもっと前ですが、本日アプ


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