プロローグ
――あれは、そう。確か七・八年ばかり前のことだったかな。
白髪の老人が琥珀の液体の揺れるグラスを片手に、蝋燭の心もとない明かりの元、ポツリポツリと語る。
――あの日、ワシは夜明け前にここ、リーバスの港から出航したんじゃ。
仕入れた荷の中には生ものもあったからの、完全に日の昇りきらぬうちに、帰らねばならんかった。
だが、今から思えば、どんなに強行軍になってしまっても、仮眠なんぞ取らずに、ワシは買い付けが終わった夜半過ぎには船を出すべきだったのかもしれん。
そうすれば…、あんな地獄絵図は見ずにすんだろうからのぉ。
老人が肘を付く食台を囲むようにして座っていた大小五つの人影の内、一番小さな影が堪え切れなかったようにごくりと喉を鳴らした。
――最初、波音と闇の狭間に聞こえたのは、すすり泣くような声じゃった。
語りながら老人は目を伏せる。あの時の情景は、今でもはっきりと思い出せる。初めは、気のせいかと思った。
ついで、そうではないと気付いた後も、気のせいだと思うことにしたのだ。
あの歌声が、聞こえてくるまでは。
それは、成熟していない少女の声。
聴いているこちらの胸が、張り裂けそうになるほどに切なく、哀しい唄だった。
迷信深い船乗りの彼が、ついに好奇心に負けてその声の主を探してしまうほどに。
歌声を辿るようにして、船を駆るとやがて彼は漂う巨大な船を見つけた。
彼の乗る船とは、比べ物にならないほどに大きな船の帆にはロジャーマーク。
それも、このマークは紅の髑髏。
当時この辺りの海では名を馳せた一億ベリーの賞金首、レイザー・ロッテを首領とする海賊船。
ブラック・クロウ号。
その中から歌声は聴こえていた。
だが。
――不思議なことに、その船からは人の気配一つせんかった。…まるでそう、幽霊船のようじゃったの。
幽霊船、と聞いて小さな影と、その隣りの細い影がびくりと震える。
それを横目で確認しながら、老人は軽くグラスを煽る。グラスと氷が冷たい音を立ててぶつかった。
――歌声に釣られてしまったことからも分るじゃろうが、ワシは昔からどうも好奇心には弱いようでの。
その時も、ついつい海賊船の様子が気になって、船を寄せてもうた。
そうして彼は気付く。
遥か頭上、海賊船の甲板から鉄錆のような臭いが漂ってくることに。
そこで、彼は引き揚げるべきだったのだろう。
けれどその時の彼には気付けなかったのだ、そのどこか知っているような臭いが、大量の血臭であることを。
彼がその事実に思い当たったのは、手すりに投げかけた鉤爪ロープを登りきった時のことだった。
いつしか、歌は止んでいた。
代わりに、甲板を満たしているのはおびただしい量の紅と、それの持ち主であったと思われる両手両足の指を使っても数え切れない量の死体。
そうして、それから… ――甲板に上がって初めてワシはそれに気づいた。ぴちゃり、くちゃりと船体の後ろの方から濡れたような音がしていることに。
ひぃぃぃっと、小さな影とひょろっとした影が怯えるように身を寄せた。
――またワシも止せばいいものを、ついつい気になってしまってのぉ。恐る恐る、裏へと回ってみたんじゃが。…そうしたら。ソイツと目が合った。
二つの影は、もう声も出ないようだ。それらに構わず老人は更に、ソイツの話を続ける。
――蒼い瞳、長い長い銀の髪を持つソイツは獣のように手元の何かを貪っておった。
その様はあまりに醜悪でおぞましく、彼が思わず目を背けようとしたその瞬間。
雲の切れ目から覗いた月が、闇が隠していた真実を容赦なく暴いた。
ソイツが貪るように喰いついていた、青白い色をしたソレは。
――紛れも無く、人間の腕じゃった。
小さい影とひょろ長い影はもとより残る三つの影も息を呑んだが、それと同時に。
キィィィ。
船室の扉が開き。
そこに現れた影は悪魔の使い。
少なくとも、船室の六人のうち二人はそう信じた。
「「うぎゃぁぁぁぁあ!」」
ぱっと灯りがつき、船室の薄闇はあっという間に振り払われる。
大声に眉を潜めて、呆れたように緑の髪の青年が電灯のスイッチから手を放した。
「何やってんだ、お前ら」
「っっ〜〜!」
ピンクの帽子を被ったトナカイが、安堵から声もなく涙した。
「あら、剣士さん」
「ぞっゾロ、お前入るなら入るで声くらいかけろよなぁ」
「はぁ?」
「っていうか、あんたこんな時間まで甲板で寝てたの? …いいわよね、馬鹿は風邪とは無縁で」
栗色の髪の少女が呆れたように言う。
「おう、若いの先刻は助かったよ。おぬしが気付いてくれなんだら、ワシはもうちょいで溺れ死ぬとこだったわ」
老人が頭を下げるのに、青年は軽く手を振ってあしらった。
「ああ、別に。偶然だから気にすんな。つーか、じいさんまだ居たのか」
「おう、ちょいと船長殿に昔話をせがまれての」
「じーさん、じーさん! それで? どうなったんだ、ソイツってのは結局ほんとにセーレンとかいう奴だったのか?」
その船長殿が、目をきらきらと輝かせて老人ににじり寄る。
船医のトナカイも、おなじような瞳をしてそれに続いた。
「オレも知りたい!」
先ほど、怖い思いをしたのを忘れたかのようなはしゃぎぶりだ。
「せーれん? 何だそりゃ」
「セイレーン。夜の海に出る女の化けもんだよ。えらく美人で、その歌声で船乗りを惑わすんだってさ。それくれー、常識だろ?」
「へぇ……。そういやエロコックが見あたらねえな。珍しい。美女がらみの話ならあいつが食いつかないはずがないのに」
「あー、それがね。サンジくんも聞きたそうにはしてたんだけど、ほら。いつもの例のごとく」
「……まさか、こいつらまた食糧庫に忍び込みやがったのか」
「ええ、それはもう見事な手際だったわ。コックさんが気付いたときにはもう昨日買い込んだ食糧の半分が彼らのお腹に消えてたんですもの」
「だーら、それは謝っただろーがロビン。つーかさ、食ったのはほとんどあのゴム人間なんだぜ? それなのにサンジの奴、オレとチョッパーにまで足技かましやがって…くそう覚えてやがれってんだ」
悔しげに長鼻の少年が握り拳を作るのと、その声が本当に楽しげに呟くのとは同時だった。
「ほお。じゃあ、お前はこれから飯抜きな」
「げ」
「おう、サンジおっ帰りぃ!」 「おっ帰りぃ!」
「…お前ら、誰のせいでこんな時間に買出しに行くはめになったかわかってんだろうな」
どすの利いた声で吐き捨てて両腕一杯の荷物を食糧庫の前まで運ぶと、青年は咥えたタバコを灰皿の中でもみ消す。
「サンジくん、お帰りなさい〜」
「ご苦労様、コックさん。何かいい品物は手に入った?」
女性陣のねぎらいの言葉に、金髪の青年はあっさりと先程までの渋面を投げ捨てた。
なんとまあ、見事な切り替わりよう。老人はこっそりそう感心した。
「たっだいま〜、ナミさん。うんといー肉が手にはいったよん、ロビンちゃん! 二人とも楽しみにしててねぇ〜!」
「おお! そりゃー楽しみだな、チョッパー」
「そーだね、ルフィ!」
「誰がてめぇらに言ったか!!」
「まー、落ち着けサンジ。こいつらには何言っても無駄だ。それよりお前もじいさんの話聞きたかったんだろ?」
「あー? まあ聞きたかったと言えば、聞きたかったが」
「じゃあ、とっとと座れよ。ほらゾロも。じーさん悪い、もっぺん最初から頼む」
「おう、お安い御用じゃ」
そうして再び、室内の明かりは蝋燭の炎だけになった。
「…と、まあそう言うわけで、ワシはついに悪魔の化身を倒し、あわや化けもんの餌にされるところだったお嬢さんを助け出したというわけじゃ。二人は添い遂げ幸せに暮らしましたとさ、めでたしめでたし」
「おおー、すげーじいさん!目茶苦茶つえーな!」
「よかったぁ、姉ちゃん幸せになれたんだなぁ」
感激する二人の横で、
「ていうか、途中から明らかに作り話だろー。おい」
「セイレーンの話じゃなかったのか? 麗しの乙女は?」
「……ばかか」
「わたしは、このバカ話とバカな仲間のどっちに突っ込むべきなんだと思う、ロビン?」
「難しいところね」
ぼそぼそと残るメンバーは疲れたように呟いている。
きらきらと目を輝かせる二人には聴こえるはずも無かったが。
「なー、じいさん!ほんとーにその話に出てくるセイレーンは、これから俺等の通る海に居るのか?」
「居るのかぁ?」
「……」 キラキラキラ。
純粋な瞳が老人を見つめる。
「……………すまん、ワシが悪かった」
「ご老人、冗談話がしたいなら相手はよく選べ。そいつらは、作り話聞かせるにはある意味最悪の相手だぞ」
「…のようじゃの。料理長」
多少酔いの醒めた顔で神妙に頷く。
「どーいうことだ?」
「もしかして、今の話全部ウソだったのか!?」
ショック、と顔に書いて叫んだトナカイにすまなさそうに老人は謝った。
「まあ、全部じゃないがの」
「じゃあおじいさんが化け物にエルボー食らわした話も?」
「ウソじゃ、悪かったの船医くん」
「そ、それじゃじいさんが化け物と大声対決した話もか!?」
「…ワシ、そんな話したかの船長?」
あら、と黒髪の女性が首を傾げた。
「全部じゃない、ということは、本当に貴方があの【朱い船】の発見者ということなのかしら。おじいさん」
「おう、お嬢さん詳しいの」
老人は感心したようにその通りじゃと頷く。
「あかいふね? なんだ、それ」
かわいらしい声が仲間の心を代弁した。
「つまり、このおじいさんは途中までは真実を話していたと言うことよ、船医さん。約八年前、確かにレイザー・ロッテ率いる海賊団は、このリーバスを発ったその晩に船長を含む全員が遺体という形で発見されたわ。例外なく、全員が切り殺されてね。発見時、甲板は血で溢れ、帆も紅のはずの髑髏が所々どす黒く血で汚れていたと聞いているけれど」
「ワシが見つけたときは、真っ赤にしか見えんかったんだがの。時間が経つと乾いて色が変わっちまったらしい。まあ、甲板の血は乾くほど少ない量ではなかったみたいだが」
「成る程ね。だから、朱い船」
航海士である少女が真剣な調子で呟く。
「ええ…そして。たった一晩で何が起こったのか、何者によるものだったのかは今でも分っていない。ただ…その船から歌声が聴こえていたということ以外わね」
「なぁ、それってさ…つまり」
珍しく真剣な口調で、船長。
「セイレーンはいるってことか?」
「……」
「……」
「……」
「……」
「……」
「あーんーたーはー」
「ひゃへろ!はみ(やめろ!ナミ)ひっはるは(ひっぱるな)」
「だまらっしゃい、この口は! まだその話題を引っ張るか!」
限界まで引っ張った頬を、前触れなく放すとばちんと痛そうな音を立て麦わらの青年の顔が元に戻る。頬をさすりながら、だってと口を尖らせた。
「いてくれないと、困るんだよ。せっかく仲間にしようと思ってたのに」
「またお主は突飛なことを言い出すのー、冗談にしてもそう笑えんぞぉ? 何せ一億ベリーの賞金首とその右腕を一太刀で仕留めたセイレーンじゃ」
挑発するように笑う爺に、過去の被害者二人は少々青ざめた。
「じーさん、そういうこと言うのは止めろ。あんたは知らないだろうが、こいつはやると決めたら、絶対やるんだ」
「それにな、ルフィ。セイレーンっていうのは、確か歌声で船乗りを惑わせて海底に引き摺り込むんだ。だとしたら刃物を使うわけがないし、もし仮に万が一、その犯人がセイレーンでも、そもそもんなもん仲間にする海賊がどこにいる!」
息を荒げて怒鳴る青年二人。
彼らの過去に、一体何があったというのだろうと老人は思った。
だが黙って船長はじとーとその二人を見つめるばかり。
諦めるつもりはないらしい。
「あー、そのなんだ船長?」
流石に気まずくなったので(何しろ事の発端は自分の作り話だ)、老人はフォローを入れることにした。
仕方ない。とある娘の顔を思い浮かべて、彼は心の中で合掌する。
「あれの犯人がセイレーンだなんだと言っとるのは、ワシらこの辺の船乗りの憶測にすぎんがの。人魚がおる島なら、教えてやれるぞ?」
彼女なら、この船長の勧誘もどうとでも断れるだろう。
恐らく、きっと、多分…。
ちらりと自分を物凄く期待する瞳で見つめてくる、海賊船の船長から目をはずし。
ほとぼりが冷めるまでは、あの島に近寄らないで居ようとこっそり決意した老人だった。
《あとがき》 H18.11.22(書いた日はもっと前ですが、本日アプ)
あぷしたものの、原作で人魚の島が出てきそうな気配に激しく後悔。
でも真似したわけじゃないの。このネタはビビちゃんが活躍してたときに思いついたやつだから! ヒロインの設定自体はチョッパーがでてくる前のはなし(いつのはなしだよそれ)
ロビンが気に入って取り入れてみたりしてるけど、それは実際に書いたのは空島の連載中だからなんですよ! だからメリーは健在。
とか言いつつ、今週のジャンプを読んでロビン奪還篇もちょっと書いてみたいかもと思い出している、管理人だったりします。番外編で書こうかしら。
とりあえずこの話の時期としては、空島から降りた直後あたりだと思ってください。
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