情けない悲鳴が完全に聞こえなくなった頃(彼が彼にどこに引きづられて行ったのかなんて愚問だ、きっと)、が風通しのよくなってしまった窓をどうしたものかと悩んでいると、軽快なノックの音と共に勢いよく扉が開いた。

「沢田! ジムの件、ものは相談なんだが…ん? じゃないか」

 久しぶりだな、と陽気に笑う彼と会うのが久方振りなのは確かだ。
 恐らく、一人を除いた守護者全員が駆り出されたあの一年前の騒動以来だろうから。
 両手に抱えた格闘技雑誌の山に、相変わらずらしいと嫌味でなく笑みが零れる。

「ええ。お久し振りですわ」

 答えてから、ふと思い付くことがあって、顎のラインに手を添えた。脳裏にあるのは先のドンボンゴレとの会話。己の考えに心の中で深くうなづく。

?」

 訝しげに名を呼ぶ彼に、彼女は綺麗に笑いかけた。
 先ほどの自然な笑みとは微妙に違うそれを目にしたのが、このボクシング馬鹿でなかったなら、その危険な兆候を見逃したりはしなかったのだろうが、現実を見ればそれは虚しい仮定でしかない。

「笹川さん、一つお願いがあるのですけれど」

 もしよろしければ少しお時間頂けませんか、との問いかけに晴れの守護者は内容も確かめずに二つ返事で応えた。
 …たぶん、内容を聞いていたとしても彼の場合返事は変わらなかっただろうけれども。


極限男と科学者の会話。


 最初にその危機を察知したのは、骸だった。

――さすが電波。

 と、彼らの周囲の人間なら言ったろうが、生憎彼にしても虫の知らせや予感があったわけでない。
 偶々リボーンに渡された書類に、拙いボスの筆跡による間違いを発見し、小言の一つや二つ投げつけてやろうと思ってその部屋のドアノブを引いたのだ。

「ボンゴレ。少し仕事のことでお話が…」

 言い指した言葉を、彼は止める。
 部屋の中に居たのが目的の人物ではなかったからだ。

「…。貴女まだ居たんですか」

 否応にも見慣れてしまった少女の後姿に、骸は嘆息する。
 一日に二度も顔を合わせるなど、不運以外の何者でもない。
 これは誰の嫌がらせだ。神か、仏か、それとも目に見えない何かか。
 運命などというふざけたものでないように、祈りたいものだと骸は思った。
 そこまでつらつらと考えて、彼はふと眉根を寄せる。
 同じような感想を持ち合わせているだろう相手から一向に皮肉という名の反撃が返らない。
 どころか、こちらを振り返ることもなく、一心不乱に何か、パンフレットのような冊子を捲っている。

「何をそんなに熱心に読んでいるんです」
 
 まさかまた、くだらない錬金術の禁書とやらじゃないでしょうね。
 近づき覗き込もうとした彼の目の前で、冊子は閉じられる。
 背表紙のタイトルを目にする間もなく、彼女はさっさとその冊子をソファの足元に在った紙袋に入れた。
 眼つきをわずかに剣呑にした彼女は、それでもふふふと笑った。
 
「ボスなら雲雀の『おしおき』中ですわ。馬に蹴られたくなければ、出直すことをお勧めいたしますけれど」
。貴女、今何を隠し」
「ああ! もうこんな時間。そろそろお暇しなければまた仕事が山積みになってしまいますわね。それでは六道、ごきげんよう」

 次の打ち合わせは明後日にお伺いいたしますわ。
 一方的にそう言った彼女は、骸を残しさっさと部屋を後にする。

「……」

 残された骸はただ沈黙した。
 恐らくこの胸に燻る嫌な予感に間違いはあるまい。







「どうせまた、ろくでもない古文書でも見つけて来たんじゃないの」

 翌日。
 疲れきった顔で仕事部屋に現れた綱吉を捕まえて、骸は昨日の一件を伝えたわけだが。
 その綱吉が答えるよりも早く、にべもない答えを返したのはボスの護衛という名目(綱吉としてはむしろ雲雀から守ってくれる護衛が欲しいと、ちらりと思わないでもない)でソファにくつろいでいた雲雀だった。

「前は『死者の書』だっけ?」
「…その前はなんとかって錬金術師の手記とか、言ってましたよね」

 雲雀の問いにどこか目を遠くして答えた綱吉を前に、骸は声を落とした。

「いいえ。恐らく違います」

 その声はどこか沈痛ささえ漂わせていて窓際の机で書類に負われていた綱吉も、思わず手を止めて彼を凝視した。
 それだったら僕に分からないはずないじゃないですか、とそれもどうなのだろうと首を傾げたくなる言い分に綱吉は敢えて口を挟まず、雲雀は無視の方向でただ彼の言葉を待つ。

 それだったら一見しただけで分かったのか、こいつは。

 そんな二人の喉元まで出掛かった突っ込みには気付かず、骸はこれくらいと親指と人指し指の間に隙間を作った。

「水色のこれくらいの薄さの冊子です。どこかで見た覚えがないでもないのですが…」

 首を傾げた骸の前で、ポンと綱吉は両手を合わせる。それなら知っている。というか、心当たりがあった。

「それ、たぶんお兄さんのジムのパンフだ」
「…、え?」
「や、昨日さ、ここにお兄さんが来ることになってたんだよ実は。施設への融資をお願いされてたから。でもまあ結局会えなかったから今朝連絡したんだけど…、そういえばのこと聞かれたんだよ」

 なるほど、昨日ここに居たからお兄さんにあったんだ。

 そっかそっかと、無邪気に頷く綱吉はごそごそと自分の机の上を探って骸が言った通りの色と大きさの冊子を取り出す。
 背表紙、及び表紙にはこうあった。

『祝・笹川ボクシングジム開設!会員募集中』

 ぴら、と表紙を捲ればこんな一文が。

『これを期にあなたもボクシングに挑戦してみませんか? 初心者歓迎、女性も気軽に声をおかけください(当方では簡単な護身術から本格的な戦闘術まで学んでいただけます)』

 朗読した綱吉を、絶望を背負った骸が見下ろした。

「ボンゴレ、」
「なに。っていうかどうしたんです、ヒバリさんまで」
「…綱吉、いいから笹川の現在地教えて」
「え」
「僕も行きましょうか?」
「いい。それよりあの似非科学者に丸め込まれそうな奴らと、そこに居るその筆頭に説明しといて」

 綱吉はもしかしたら初めて骸に物を頼む雲雀という図を目にしたかもしれない。

「わかりました」

 それを揶揄することも皮肉ることもせず、素直に頷く骸も。

 綱吉に了平の居場所を吐かせた雲雀は、無駄口を叩くこともせず迅速に部屋を後にした。

 
「…骸。何でヒバリさんあんなに焦ってたの」

 半ば混乱ぎみの綱吉は、茫然としながら閉まる扉を見送った。

「…ボンゴレ、がこれを持っていた。その事実が何を意味するかわかりますか」

 まるで屋敷の中で爆弾が見つかったと報告するような口調に、綱吉はますます混乱する。
 たかがパンフレットを持っていただけで、何をここまで真剣になる必要があるのだろうか。

「ボクシングを習うつもりなんじゃないの、

 最近はダイエットのためだとか美容のためだとかで、格闘というよりもスポーツ感覚で楽しむ女性が増えてきたと何かの折に耳にした覚えがある。
 それに。

「護身術代わりに習っておいても損はないと思うけど? みたいにそれなりに危うい立場にいる女の子なら尚更」

 もの言いたげな骸を見て、続ける。
 彼女がボクシングを習おうなどと考える理由に、一つ心当たりがあった。

「あとさ。昨日、骸が自分に手を上げたりしないのは自分を女と思って舐めてるからだ、みたいなこと言ってたし。結構気にしてたんじゃないかな」
「…、は?」

 目を点にした骸が、恐る恐る綱吉に尋ねて来る。

「ボンゴレ。すみません、今誰が誰を舐めているとおっしゃいましたか?」
「お前が、を。…違うのか?」
「違うも何も…一体どんな勘違いをすればそんな結論に」
「勘違いってお前。実際雲雀さん相手だとすぐ二人して暴れ出すくせに、相手にはどんなに口喧嘩しても手出さないだろ?」
「…ああ、それで『女と思って舐めている』ですか? まあ多少女性相手に手を上げるのは抵抗がなくはありませんが、かといって彼女を普通の女性のカテゴリーに入れたつもりはないのですが。それ以前に、彼女と一緒にしたら世の女性方に失礼でしょうし」
「お前、その言い方は流石にヒドくないか?」

 どこがひどいものですか。
 骸は心底真剣な顔で言う。

「大体、四十五口径を平気な顔で連射する人間を舐めてかかるなんて真似、出来るわけないでしょう」
「…へ?」

 綱吉は今、己が大層間抜けな顔をしている自覚があった。

 さて、ボンゴレ。

 言って骸は珍しくしかめ面のまま、呆けたままの綱吉ににじりよる。

「誰とは言いませんが、ここに稀代の天才と呼ばれ、果ては天災とまで称された科学者がいるとします」
「…というか、だろ。その説明はどう考えても」
「…敢えて誰とは言いませんが、その科学者は銃を使います」
「ああうんそういえば、護身用だって持ってたよね。けどあくまで護身用の小銃だろ? 腕だってそりゃ一般人よりはましだろうけど、ってくらいだったし…」
「そしてその科学者はてんさいでありながら、否だからこそ努力家でもありました。――彼女の今の銃の腕前がアルコバレーノの御墨付きだとしたら?」

 早撃ちも射撃の正確さも。

「……でしかも本気で四十五口径なんだ?」

 あの熊さえ撃ち殺せる。

「ええ。リボルバー式の骨董品でしたが、銃口を向けられたときは僕でさえ死を覚悟しましたよ。…あれは恐らく自分でもいじってますね」
「………」
「さて、話を戻しましょうか。ここに口も回る、頭も困ったくらいにずば抜けていい、銃の腕も大変よろしい常備四十五口径(改造済み)の、発明と人体実験が趣味の性格に少し難のある科学者が居たとします」
「……、」
「そんな彼女がある日唐突に格闘技なるものを習いたいと、こんな冊子を君に見せたとしましょう」

 とんとん、と長い指が開いた冊子の一文その一行を指示す。

「…。」
「君ならどうします?」

 重々しい問いに、綱吉は暫く沈黙し。
 おもむろに机の上の書類の山から、内線電話を掘り出した。

「極寺くん、今こっち来れる? うんー、緊急と言えば緊急。いやいやそれは君の部下が可哀相だからちゃんと区切りがついてからでいいよ。うんお願い」

 ガチャと受話器を置いた彼は、オッドアイの視線と同じくらい真剣なそれで相手を見上げる。

 それで、と。

「あと誰に話つけとくべき」
「…取り敢えずヴァリアー辺りは必須ですね。あとアルコバレーノで戦闘馬鹿がいたでしょう?」
「コロネロ? じゃあリボーンも…いやあいつは言ったら逆に面白がるから、何か外の仕事押し付けよう」
「君が果たして彼を言いくるめられるのか非常に不安なのですが…」
「でも誰かがやらなきゃ駄目だろう?」

 だったらやるよ。
 そう決意を込め言った彼は大変に男らしかった。
 決意の内容はともかくとして。
 






 ざわざわと騒がしい部屋の外の気配に、彼女は仕事の書類確認の手を休める。
 今回は来客の予定が入っていたから、この騒ぎの主に予想は付いたが(何せ部下たちには客としか言っていない。
 財界のドンでもなければ大学教授でもない青年が客だと現れれば、ざわめきもするだろう)、

「すまん、!」

 まさか、扉を開けると同時に頭を下げられるとは流石の彼女も思わなかった。
 きょとん。
 歳相応に十代の幼さが表情に表れる。

「笹川さん?」
「……男が一度約束したことを違えるなど言語道断な話だが、今回ばかりは致し方ないのだ
「はあ」
「まさか、ペンより重いものを持つなと医者に止められているなど…いや、これはオフレコだったな。ともかく、おまえの心意気は素晴らしいが、昨日の件は忘れてくれ」
「…お話が見えないのですが」

 というより、ペンより重いものが持てないとはなんだ。
 つい先ほどまで研究室で、下手な男なら腕を痛めかねない重量のミスリルを、片手で精製していた彼女には、全く持って理解できない話である。

「つまり」
「つまり?」
「すまんがボクシングを応用した『戦闘術』のコーチング、できそうもない」

 非常に申し訳なさそうに彼は言う。

「どれだけ虚弱体し、いやか弱い女性でも俺自身がつきっきりでサポートすれば不可能ではないだろうとも思うんだが…先ほど、沢田から海外での仕事を任されてしまってな。俺が一番適任らしくて、このあとすぐにでも出発せねばならんのだ」

 施設への融資を約束してもらった手前、無下にはできない。留守の間の処置も向こうが持ってくれるというなら、尚更だ。

「後任は雲雀が勤めてくれるらしい。強さとしては申し分ないが、あいつは初心者や女子供に向かんだろう」
「…なるほど、」

 ようやく話が繋がりましたわ。
 にっこり彼女は低く言う。

?」
「いいえ、こちらの話ですから気にしないでくださいな。…わかりました、今回は残念ですが諦めますわ」

 その代わり、とは言った。

「笹川さんが戻るまでに、自力でそこの花瓶くらいは持ち上げられるようにしておきますから、そのときは特訓に付き合っていただきますわよ?」
「おお、もちろんだ!」

 それではな、と去っていく常にテンションが高い男に、は「お気をつけて」と手を振る。
 彼女は愚かな人間は嫌いだが、人を疑うことをしらない素直なひとは大好きだ。むしろ尊敬している。彼がよく口にする『極限』は、絶対に自分には真似出来ない生き方だと思う。

「さて」

 ぱたりと閉まった扉と共に呟く。
 先伸ばしにした約束で、一応保険はかけたけれどもと。

「この苛立ち、誰が納めてくださるのかしら」

 私は自分の計画を邪魔されるのが大嫌いなのですよ。ねえ、お三方?

 彼女が怪しく笑うのと、遠く離れたボンゴレの屋敷で件の三人が悪寒に身を震わせたのは、奇しくもほぼ同時の出来事だった。
 

 













【あとがき】H19.2.28
 というわけで笹川のお兄さん登場。
 次は…嵐か雷ですがどちらにしてもヒロインの彼らに対する認識は同じだという(違うのは彼らの方の対応の仕方だけ)。
 ちらっと凪ちゃんあたりを出してもいいかと思わないでもないのですが、さてどうだろう。
 ああ、本編の方は一応書いてますが、ちょこっと最初予定してたのよりも別物になりつつあったりします。
 出来上がったらまとめて上げますんで、お待ちください。
 待たせてばかりで申し訳ないです!!

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