運動神経は、そう悪い方ではない。確かに昔を思えば、今は口が裂けても本調子だなどとは言えないが、それでも三階の屋根から落ちたくらいなら、地面の上の人間に気をかける余裕くらいはあったはず。
なのに、今この状態があるのは、驚きに見開かれた紫の瞳が自分を捉えたその瞬間。不覚にも懐かしさに泣き出しそうになってしまったから。
遠い遠い昔の、純粋なくせに素直じゃない、可愛らしい少年と。
ほんの少しばかり過去の、生意気で優しい、傷だらけの少年と。
そのどちらの面影に心揺さぶられたのかは、自分でもよく分からない。
act.2『girl and white puppy』
意識が遠のいていたのは、ほんの数秒。
慌てて起き上がろうとして、額に激痛が走る。
「っ〜〜!」
痛かった。
今のは、とても痛かった。
この痛みはたぶん、養母にたかだか紙で切っただけの傷を裁縫用の針と糸で縫われかけた時の痛みに匹敵するのではないかと思われる。
確かにざっくりやって血が溢れていたが、彼女のおかげで更に痛みが倍増したのは昨日のことのように鮮明に思い出せる。
しかし、頭突きというのはとても危険な代物のようだ。
攻撃方法としてはポピュラーなものだと聞き及んでいるが、なるほど中々の威力。
けれど、敵どころか仕掛けた自分でさえダメージをうけるのなら、あまり実用的ではない気がする。
というか、相手のほうが頭が硬ければ返り討ちにあうこと請け合いだ。
今、これこのように。
痛みがようやく引いて顔を上げると、冷ややかなアメジストと視線がかち合った。
世の女性全ての羨望を集めるだろう、美麗な造作の顔が目の前にある。
それにしても、敵は相当な石頭だったらしい。ダメージは少なさそうだ。羨ましい。
(さっすが、坊主。頭が固い)
そんなことを考えていると、ごちりと頭頂部付近に金属の硬い感触がする。
おまけに、安全装置の外れる音まで聞こえたりするから止めて欲しい。
「三秒だけ待ってやる。……どけ」
ああ、なるほど。
確かにこの迫力は『破戒僧』という言葉が相応しい。
しかし、あの少年の言葉が正しければ彼は最高僧である、三蔵法師であるはずだが…その最高僧が、このようにドスの利いた声を発するのは如何な物だろうか。
暢気に思うが、体は正直だった。
「っ、はい、すみません!」
即座に答え、新妻のように慎ましやかな動作で金髪の青年の体から退く。
流石に彼の仲間らも、駆け寄ってきた。
(どうでもいいけど、すっごい綺麗どこばっかだわ)
本当にどうでもいいことだが、仮にも女の身としては少しばかり妬ましい。
「だ、大丈夫か? 君たち」
金ぴかの服を着込んだ青年も、思わず心配そうな声で訊いてきた。
彼は基本的に善良に出来ているのだ。些か、否かなり思い込みの激しい困った人物ではあるのだが。
その様子からして、彼女の正体には気付いていないらしい。
下手をすれば彼女を少年、と認識しているのかもしれなかった。
それはそれで大変好都合であるから、一向に構わない。というか、もし彼女の正体がばれてしまったら、これ以上の修羅場はないだろうから願ってもないことである。
と、いつのまにか出来ていた人垣を掻き分けて研究者らしき白衣を着た男が、彼に駆け寄った。
こそこそと耳打ちすると、彼の顔が瞬く間に蒼白になる。
「す、すまないが急用が入ったので僕は失礼するよ。そちらの彼、呼び止めてしまってすまなかったね」
そそくさと立ち去って行く青年の姿を見送っていると、背後で誰か呟いた。
「何だったんだ、あいつ?」
振り返ると紅の髪の青年が不機嫌そうな顔をしていた。
たしか、金眼の少年を借りるなら女たらしの『悟浄』だったか。
(紅の髪と瞳、ね)
「無礼なのか、いい人なのか。よく分からない人でしたね」
その傍らの青年が、朗らかに微笑みながら悟浄に応える。
黒髪と翡翠に一眼眼鏡。彼が『八戎』か。思いながら、彼らの顔を順に見上げる。
こういうとき背が低いことを嫌でも自覚させられて、少しだけ落ち込むが今は気にしないことにした。耳元のカフスを見て、暫し思考する。
(少年の金冠といい、彼のカフスといい…へぇ)
なるほど、風の噂に聞いていた三蔵一行の武勇伝もホラではなかったらしい。
何より件の三蔵法師が彼のことであったのなら、頷けると言うモノだ。
「悪い人じゃないんだけどね。ほら、居るでしょ。悪意皆無、むしろ善意のつもりで厄介ごとを量産してくれる人って。…悪人じゃあないんだけどね」
遠い目をしながら言うと、人が良さそうに見える青年は(けれど何故か油断してはいけない気がする)苦笑したようだった。
「あー、確かに居ますね。そういう人」
「しかも、思い込んだら一筋だからたちが悪い。で、さっきから何? 少年」
倒れた際についたと思われる膝の土を払いながら、もの言いたそうに自分を見つめてくる少年に、今度は彼女が苦笑して聞く。
「今朝のアップルパイはそんなに不評だったの?」
「! やっぱり、お前だったんだ」
「あはは。酷いな、まだあれから半日程度しか経ってないよ? それなのに、忘れられちゃったの、私?」
「ち、ちげぇって。なんか、ほら朝会ったときと感じが違ったから」
「そう? あー、そういえばドッロドロだもんね。この格好」
外套は昨日洗濯したばかりだったから、その差は歴然だろう。戸惑うのも無理はない。
しかも、登場の仕方が仕方だったし。そこまで考えて、彼女はいったん思考を止めた。
(………)
あー、しまった。一瞬忘れてた。いやどっちかというと、一生忘れていたかったけど。
背中に突き刺さる視線がかなり痛い。
「ごめん私急用ができたみたいだからまたね」
不審そうな眼差しを向けてくる美形三人の前で、ノンブレスで言い切って、そそくさとその場を後にする。
少なくとも、彼女はそうしたかったし、そうしようと決めていた。
「おい」
ジャキ。
うん、知ってた。世の中なんてこんなものよ。
背中に当たる鉄の感触に、彼女は両手を上げ降参の意を示しながらも、心の中で滂沱の涙を流す。
「人の上に乗っかって置いて、説明どころか謝罪もなしか」
「……」
お願いだから乙女の後頭部にそんな危ないもの押し付けて、無表情低音ボイスで、んな怪しいい言い回しをしないで下さい。三蔵法師様。
* * *
「名前は」
「匿名でお願いします」
「…歳は」
「乙女の年齢は不詳というのが、世の常でありましょう?」
「……出身地」
「この街以外の場所です」
「……………」
「わあ、すみません!! ごめんなさい、謝るから無表情に懐に手を入れないで怖いから! それに銃弾て当たったら、痛いんだから、ね、ね?」
(いや、当たったら痛いとかいうレベルの話じゃないんですけどね)
当たり所が悪ければ、一瞬で川向こうの人間になれる。
そもそもそこまで慌てるのなら、初めからきちんと答えればいいのではないのだろうか。
湯飲みの乗った盆を片手に、後ろ手で扉を閉めながら八戎が内心で突っ込んだ。
そこは、ようやく借りられた宿屋の一室。
あのあとも何軒か回ったが全て断られ。そんな彼らを見かねたのだろう、おずおずと三蔵に首根っこを掴まれた少女が手を上げて、この宿屋の場所を教えてくれたのだ。
『あそこの主人はいい人だし、むしろ困ってる人はほっとけない、ある意味じゃ損な性分だから。貴方たちのことも匿ってくれると思う』
匿う、という表現には些か引っかかる気もしないではなかったが、わらをも掴む気持ちで尋ねてみると、あっさりと厳つい顔をした宿屋の主人は彼らを泊めてくれた。
三蔵の出立ちを見ただけで大半の事情を察してくれたらしく、女将さんは夜食が出来たら部屋に持っていくからとだけ言ってくれた。
「お願いっ、さっきのはほんっとうに事故だったの、信じて! ほら、この通り謝罪ならいくらでもするから」
だからどうか、私を解放してください。
土下座の体制で言う少女は、相変わらず外套をすっぽりと頭から被っていて、その表情どころか容姿さえよく見えない。
少女だとわかるのはその声あってこそ。
だが、その身に纏う雰囲気全部を駆使し、彼女は平身低頭の態で頭を下げている。
「……、」
軽く息をつき、救いを求めるようにこちらに向けられた三蔵の視線を受け止めて、八戎は苦笑する。
まあ確かに、半分はいきなり銃をつきつけた三蔵の責任であるのだが、このままこの少女に警戒され続けるのは得策ではないだろう。
何より、話が進まない。
そう結論付けて、八戎は茶を机に置き、少女の傍らに膝をついた。
「まあまあ、そんなに謝らなくていいですよ。大したケガをしたわけでもありませんし、その人の目付きが悪くてしかめっ面なのは元からですから、あまり気にしないで下さい」
「…おい。」
そんなことより、貴女の方こそケガはありませんか?
三蔵の呟きを軽くスルーして、八戎は笑顔で少女に手を差し伸べる。
「え、ああ、うん大丈夫。……まぁ、ぶつかったときは頭が割れたときくらい痛かったけど」
「…それを言うなら、頭が割れそうなくらいだろうが」
実際に割れていたら、それこそ彼女はここに居まい。
ぼそりと訂正を入れる最高僧を横目に、ベッドに腰掛けた悟浄がそれはそれは楽しそうに声を上げた。
「ははっ、三蔵サマってば石頭だかんな!」
けたけたと笑う赤い髪にぴたりと小銃の照準が合わされるのは世の常識。
騒がしいやりとりを背後に、八戎は何事もなかったように少女に椅子を勧めた。
「僕は猪八戎と言います、どうぞよろしく」
「あ、どうもご丁寧に。私は山田花子と――」
常日頃から使用している偽名を言いかけて、彼女は慌てて口を閉じた。
ニコニコ。
なんだろう、目の前の笑顔がとても怖い。否。むしろ黒い。
「えー」
ニコニコ。
「その」
ニコニコ。
「…………、とお呼びください」
自分の中の感情その他を黙らせて、譲歩の末彼女はそう名乗る。
なぜか口調まで変わっているが、三蔵のときと同様に心境的にはそうしなければいけない気がとてもした。
くっ、負けた。この私がこんなほそっこい青年の笑顔に押される日がくるなんて!!
そんな少女の内心の葛藤をよそに、八戎はにっこりと笑んだ。
「さん、ですね。幾つかお聞きしたいんですが」
「……あー、いやでいいよ。さん、とか言うガラでもないし」
「では、」
「はいな」
名乗らされたことが悔しくて、投げやりに彼女は答えた。
「事故と言われましたが、貴女はどうしてあんなところから落ちてきたんですか?」
「……………夕焼け空が綺麗だったから?」
「いや、僕に訊かれても困るんですけど。理由になっていませんし」
「…人間誰しも、一つや二つ疑問を抱えて一生を生きていくもんだと思うの」
言ってしまってから、しまったと思った。案の定、あの笑顔が青年の顔に復活している。
なんだかこの一時間弱で、こういう種類の『しまった』を連発してしまっている気がする。なんだか調子がかなり悪い。
(…だって、似てるんだよね彼も)
目の前の温和そうに見える(きっと、そう見えるだけのような気がするが)青年も、ついでに赤い髪のやたらと色気を漂わせている青年も。
遠い昔、自分を慕ってくれていたあの子らに。
ただでさえ、『彼』と奇しくも再会してしまったのに(まだ気付かれていないし、たぶん顔を見られても彼は思い出さないと思うけれど、もしも気付かれ思い出されてしまったら、とてもとても恐ろしい…そのときはさっさと逃げよう)、しかもその上、あの子らそっくりの彼らと遭遇してかなり動揺してしまっている自分が確かにここに居る。
はやく、夜食の催促に行った金眼の少年が戻ってこないだろうか。
あの少年はどう考えても理詰めで考えるタイプには見えなかったし、こちらとしても彼らの情報は多少欲しいから、交渉するなら彼みたいな方がありがたい。
何より、あの少年は癒し系(動物)だし。
ふー、と一つ溜息を吐いて、彼女は真っ向から翡翠の瞳を見つめ返した。
「なら、貴方たちが偽名を使って泊まってる理由、教えてくれるの?」
「おや…見てたんですか?」
「鈴木一郎さん、次郎さん、三郎さんに、四郎くんだっけ。因みに、わたしはさっきの山田花子って書いたけど」
名を呼び順々に指差され、八戎が軽く目を見張る。
確か八戎が宿帳を記入し終えたときは、先に記入し終えていた彼女は宿屋の主人と『またお世話になります』等々と、話し込んでいた。
それに記入した宿帳はすぐに女将が仕舞っていたから、八戎が書き込んでいたわずかの間に彼女はその偽名を読み取ったことになる。
「……一郎兄さん、どうします?」
訊けば、件の長男殿は次男への私刑の手を休めて、片眉を跳ね上げた。
「喋る義理はねぇな」
「だったら、私も話す必要を感じない」
先ほどまでのおびえっぷりはどこへ行ったのか。
の方も軽く片眉を上げて答える。
「てめぇ」
「…別に屁理屈こねてるわけじゃないよ。ただ、疑問は疑問のまま置いておいた方がいいこともあるってこと、貴方だって知ってるんでしょう?」
「……」
沈黙した三蔵を横目に八戎は思う。
確かに、彼女の言い分は正しい。
『聞かない方がいい、巻き込まれたくないのなら』
彼女が言っているのはそういうこと。
三蔵が『喋る義理はない』と断言した理由とそれはほぼ同じだ。
だから彼女は言ったのだろう。貴方だって知っているでしょう、と。
そうして、つまりそれは自分たちの事情を、少なくとも深刻な問題を抱えた旅の道中であることを見抜いているということでもあった。
ずっと静観していた悟浄も同じ思いなのか、感心したように外套を羽織った小柄な少女を見つめている。
突然空から降ってきた、悟空が世話になったらしい謎の少女。
彼女は一体何者なのか。この段に到って、初めて彼らは彼女に本当の意味で興味を持った。
視線が痛い。
興味津々といった感じの二対のそれもだが、何より懐疑と警戒を含んだ紫紺のその眼差しが一番痛い。
しまったとは思わなかったが、ちょっとだけまずかったかな、とは思う。
あの場合、あれ以上八戎のペースに流されてしまったら、いらぬことまで感づかれてしまいそうで。
それにできればあまり、三蔵法師だの何だのの仏門関係の人物とは関わりになりたくない事情が、少なくとも今の自分にはあるのだ。
三蔵法師が彼であったこととは別の理由から。
だが、かといって、この面々を相手にヘタな誤魔化しをしようものなら、不必要に懐疑の目を向けられる可能性もあった。
だから、わざわざ含みのある言い方をしたのだが。
(まぁ、もうこの一行に出会った時点で手遅れなような気もするんだけどね)
けれどこれまで『彼』と出逢った際は見つからなかったようだから、今回だって大丈夫な可能性だってないとは言い切れないではないか。
少しでも『手遅れでない』可能性があるのなら、自分はその可能性を信じたい。
「なあ! 夜食の準備できたって!」
居心地の悪い空気を、元気な声が吹き飛ばす。
勢い良く開いたドアから入ってきた少年の背後から、小さな顔が恐る恐る覗いた。
きょろきょろと部屋の中の面々を見渡して、最後にに目を止める。
「おねぇちゃん、無事だったんだね!」
花が咲くように綻んだ、幼い少女の顔。
「凛ちゃん!」
それを目にしたとたん、今までの真面目な顔はどこへ行ったのか。
きゃぁ〜と黄色い声を上げたは、今年七つになったばかりの宿屋の看板娘に抱きついた。
あぁ、かわいいっ。
突然の彼女の狂態に、三蔵一行が目を瞬いているが気にするもんか。
かわいいもんはかわいいんだ!
しがみつかれた少女は少しだけ息苦しそうにしたが、慣れた仕種で彼女を見上げた。
「急にいなくなっちゃったから、凛もお母さんたちもしんぱいしてたんだよ?」
「うん、さっきおじさんにも叱られたよ。ちょっと厄介なことになっちゃって、巻き込みたくなかったんだ。ごめんね?」
ひょっこりと前触れもなく舞い戻り記帳を済ませた自分を、仏頂面で言葉すくなに諭してくれた宿屋の主人を思い出す。
この宿屋に世話になっていたのは、昨日の朝までのほんの暫らく。
なのにここまでよくしてくれる、この一家には絶対にこの先いつまでも幸せであってほしいと思う。
「やっかいなことって? おねぇちゃんがどろどろなのとかんけいある?」
「うーん、あるって言えばあるし、ないって言えばないかな」
「あぶないこと? もしかして、門のお外に出たの? だめだよ、まちは零夜さまが守ってくれてるけど、お外はこわいようかいがいっぱいいるんだから」
心配そうに自分を見上げる瞳に、思わず心が打たれる。
けれど、その反面。後ろ暗い思いがあるのも確かだった。
「大丈夫だよ、ちょっと足が滑って転んだだけ」
がやろうとしていることは、この街の人々を危険に晒すことになるかもしれない。
いや、確実にそうなるだろう。それは、残念ながら事実。けれど、あれは駄目なのだ。
どんな理由があろうと、あれは、あの状況は見過ごすわけにはいかない。
たしかにあれを使えば雑魚妖怪が束になろうと脅威にはならないだろう。
しかし、近い将来、確実にあれらはこの街の人間の隙を突き、彼らに妖怪以上の脅威を与えるのだから。
そうして、そうする権利があれらには十分過ぎるほどにある。そうなってしまったら、きっと誰も止められないし、自分も止めはしないだろうから。
だから、そうなってしまう前に。
「さて、じゃあ凛ちゃんに心配かけちゃったお詫びに、私が何か甘いお菓子でも作ろうか」
「ほんと!?」
「ほんと、ほんと。凛ちゃん何が食べたい?」
「あっぷるぱいがいい!」
「りょーかい。じゃあ、女将さんに厨房を借りても良いか訊きに行こうか」
「うん!」
ぱたぱた、と走り出した幼子の後を追いながらは三蔵たちを振り返った。
「というわけだから、話の続きはあとでもいいかな? あなたが私を引っ張ってきた本当の理由は、べつに私のことを聞きたかったからだけじゃないんでしょ、三蔵法師どの」
「…」
三蔵法師の視線が彼女に突き刺さる。
「そう睨まないでほしいな。そこの少年が貴方のことをそう呼んでたし、こう見えても放浪歴は貴方たちより長いんだよ? 噂に聞いたことくらいはあってもおかしくないんじゃないかな、三蔵一行の武勇伝は有名だもの」
肩を竦め苦笑。
それから彼女は少し首を傾げた。
「そういえば、まだお口にあったのかどうか聞いてなかったけど……あなたたちも、一緒にアップルパイ食べる?」
* * *
ぱたぱた、と凛は廊下を走る。
お母さんに会いに行くために部屋を出てすぐ、お父さんに頼まれごとをされてしまった。
おねぇちゃんはまださっきのお兄さんたちと話していたので、さきに頼まれごとをすませることにする。
おねぇちゃんは厨房の場所を知っているから、後から追いかければ良い。
それに頼まれごとは、そのおねぇちゃんの泊まる部屋のこと。どうやらあの部屋のお風呂の石けんが切れていたようなのだ。
それは大変だ、と凛は思った。
だっておねぇちゃんはあんな格好をしているけれど、ほんとうはとってもとっても綺麗なひとなのだ。
それにとっても優しくて、ぎゅっとされるととてもいいにおいがする。
凛はそんなおねぇちゃんが大好きだ。
なのに、お部屋に石けんがないせいでおねぇちゃんが凛のことを嫌いになってしまったら――、嫌いにはならなくても嫌な思いをしたら。
そんなのダメ。
ぎゅっと掌の石けんを握り締め、凛はおねぇちゃんの部屋の扉を開ける。鍵はまだかけていなかったのか、あっさり開いた。
きぃぃ、と軋むドア。
電気を点けて、風呂場に急ぐ。
と、その途中、凛は思わず足を止めた。
「?」
ベッドの上に放り出された鞄。
それがもぞもぞと動いている。
それに鞄の口からはみ出しているのは、あれは――。
「しっぽ?」
その言葉に反応したのか、真っ白で小さな尻尾が嬉しげに揺れた。
* * *
「あー、腹いっぱいでしあわせ」
「あはは、それはよかったね。少年」
夜食の後、最後のアップルパイを片付けた悟空にコーヒーを運んできた少女が笑う。
その少女の後ろからちょこまかと、同じように盆の上にマグカップをのせた凛がついてきている。
目の前に置かれたカップを受け取って、悟空は少女を見上げた。立っているときは、彼の方が少し背丈があるのだが今は椅子に腰掛けているのでそうなるのだ。
「なぁ、その少年って止めねぇ?」
「うん?」
悟浄の前にカップを並べていた少女が訝しそうに振り返る。
「なんか、俺が呼ばれてるって気がしねー」
「じゃあ……ってそう言えば君の名前、聞いてないよ私。八戎くんは教えてもらったけど」
「そうだっけ」
「そうだよ」
「そう言えば、そうですね。三蔵と悟浄もまだ名乗ってないんじゃありませんか?」
凛からカップをもらいながら、八戎が補足する。
「だな」
「…フン」
というより、名乗りあえる話の流れではなかった。
「そっか。俺は悟空! 孫悟空!」
「悟空くんね、わかった。いい名前だね」
「そうか? へへっ、サンキュ。悟空でいいよ」
「もしくは小猿ちゃんね」
コーヒーを片手に悟浄が茶化す。
「小猿?」
「んだと、エロ河童!」
「はいはい、お前の相手はあとあと。お嬢ちゃん、俺は悟浄ね。沙悟浄。で、まぁこっちの物騒な仏僧のことは知ってたみたいだけど…」
「……玄奘三蔵だ」
悟浄に促され、悟空に見つめられ、そして(これが一番大きな要因であるのだが)八戎に微笑まれ、仕方無しに三蔵が名乗る。
忌々しげに彼は机の灰皿を引き寄せた。
そんな彼の前にカップを並べながら悟空の眼差しが今度は自分に向けられるのを感じて、は内心苦笑する。
まぁ、もうすでに一度名乗ってしまったのだし、こうなれば抵抗する理由もないだろう。
「八戎くんには一度名乗ったし…悟浄くんと三蔵さんも聞いてたかもしれないけど。私は、。宗」
「だな!」
ぱあっと顔を輝かせ、悟空はの名を幾度か口の中で転がす。
その顔を見て、当の名を呼ばれた本人はちょっと身を引いた。
彼女は人、動物問わず性別問わずひたすら子どもに弱い。
「は何してる人? どうして三蔵の上に降ってきたんだ?」
きらきらきら。
う。そんな瞳で見てくるなんて、卑怯だ。
ひきりと引き攣る頬を無理矢理笑みの形にするが、きっと不自然極まりないに違いない。
前言撤回、これなら八戎と心理戦で情報を手に入れる方が楽だった。
「わ、私は一応さすらいの旅人さんだよ。…落っこちたのは屋根の上でちょっとドジったっていうか、動揺したというか」
「? そもそも、何で屋根の上になんか居たんだ」
「それがまー、いろいろとあったんだけ――」
は。
「「「……」」」
じー。
「で、でもほら。聞いても、たいして面白い話じゃないから! と、そうだ私お皿片付けてこないと。悟空また後でね、凛ちゃん、行こう!」
「あ、まって。おねぇちゃん!?」
ばたん。
扉が閉まるさまを仲良く四人は見守った。
「………どうしたんだろ?」
わけがわからず、首をかしげる悟空。
「………チッ」
逃げやがったかと、煙草に火を点けつつ三蔵は舌打ち。
「………面白い嬢ちゃんだなあ」
呆れたように、可笑しそうに悟浄が煙草を取り出す。
「………あはは、今度から彼女から話を聞き出すのは悟空にお願いしましょうか」
八戎は苦笑しながら、マグカップの中身を啜った。
「??? 何で」
「このメンバーの中で、が一番話し易いのは悟空みたいですから」
わけがわからない、といった顔をした悟空の頭を悟浄が軽く叩いた。
「まあ、お前がお子ちゃまだってことだ」
ますますわけがわからない。
「わかる必要はねぇ。ただ、てめーは普通にしてりゃいいんだよ」
「そう、なのか?」
尋ねた悟空にそうだ、と三蔵は頷いた。
【あとがき】 H18.12.11
というわけでヒロイン、ショタコン発覚の巻きでした(違)。
一応小題の意訳は「少女と白い子犬」。前のは「彼女の焼いたアップルパイ」です。まんまだな。でも、管理人が勝手に訳したので海の向こうで通じるかは謎。
ちっさいこが好きなのは管理人の方です実は。別に犯罪に走ろうというわけではなく、単純にちっさい生き物に弱いというだけの話ですよ、念のため。
まるっこくて、ぷくぷくしてるのが激しくツボを刺激します。結婚はどうでもいいけど、子供はほしいなー(相手もいないくせに何を言う)。
だから小説かいてても、赤ん坊とか子犬とか子猫とかの出現率は高いです。現に、連載ものでも結構だしてるし。
今回のは書いててめっちゃ楽しかった記憶があります(例によって例のごとく、この辺書いたのは大分前)。
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